はじめに — テクノロジーに国境はないが、人材には国境がある
シリコンバレーの成功要因を一つだけ挙げるとすれば、それは「世界中から最も優秀な人材が集まる場所」であることだ。Google、Tesla、Uber、Stripe。これらの企業の創業者は、いずれもアメリカ生まれではない。移民がスタートアップエコシステムの原動力であることは、データが明確に示している。
翻って日本はどうか。少子高齢化による労働人口の減少が深刻化する中、海外の優秀な人材を惹きつけることは国家的な課題だ。しかし、日本の移民政策は依然として保守的で、スタートアップに必要な高度人材の受け入れ体制は十分とは言えない。
この記事では、移民政策とスタートアップエコシステムの関係を国際比較し、日本が取るべき戦略を提言する。
第1章:データで見る「移民とスタートアップ」の関係
アメリカの事例
National Foundation for American Policyの2023年の調査によると、アメリカのユニコーン企業(評価額10億ドル以上)の55%に、少なくとも1人の移民の創業者がいる。さらに、フォーチュン500企業の45%が、移民またはその子供によって創業されている。
具体的な名前を挙げれば、Google(セルゲイ・ブリン、ロシア出身)、Tesla/SpaceX(イーロン・マスク、南アフリカ出身)、Stripe(パトリック・コリソン、アイルランド出身)、Zoom(エリック・ユアン、中国出身)、Nvidia(ジェンスン・ファン、台湾出身)。アメリカのテック産業は、移民なしでは成り立たない。
イスラエルの事例
人口わずか950万人のイスラエルが、世界有数のスタートアップ大国である理由の一つは、移民政策にある。1990年代の旧ソ連崩壊に伴い、約100万人のロシア系移民を受け入れた。その中には多数のエンジニアや科学者が含まれており、彼らがイスラエルのテクノロジー産業の基盤を築いた。
イスラエル政府は、移民起業家向けの専用ビザ、政府系ファンドによる初期投資、ヘブライ語教育プログラムなど、移民がスタートアップを立ち上げやすい環境を国策として整備している。
カナダの事例
カナダは2017年に世界初の「スタートアップビザ(Start-up Visa Program)」を導入した。指定されたVC、エンジェル投資家、またはインキュベーターからの支援を受けた外国人起業家に、永住権への道を開くプログラムだ。
導入以来、世界中から年間500〜700件の申請があり、トロント、バンクーバー、モントリオールのスタートアップエコシステムの成長に大きく貢献している。特にAI分野では、モントリオールが世界的な研究拠点として台頭した背景に、海外研究者の積極的な受け入れがある。
第2章:日本の現状 — 高度人材は来ているのか
在留資格制度の概要
日本の外国人労働者の受け入れは、在留資格(ビザ)制度に基づいている。スタートアップに関連する主な在留資格は以下の通りだ。
- 経営・管理:外国人が日本で事業を経営する場合。資本金500万円以上または常勤従業員2名以上が要件
- 高度専門職:学歴、職歴、年収等をポイント制で評価し、一定以上のポイントを持つ高度人材に付与。70ポイント以上で在留期間5年、80ポイント以上で最短1年で永住権申請可能
- 技術・人文知識・国際業務:エンジニア、マーケター等の専門職向け。スタートアップのエンジニア採用で最も一般的
- 特定技能:人手不足の14分野(介護、外食等)向け。スタートアップとは直接関係が薄い
数字で見る日本の高度人材受け入れ
2024年末時点の高度専門職の在留者数は約24,000人。5年前の約2倍に増加したものの、絶対数ではアメリカのH-1Bビザ(年間約85,000件の新規発行)と比較にならない。
日本貿易振興機構(JETRO)の2025年の調査では、日本で起業を検討している外国人のうち、実際に起業に至ったのは約15%にとどまる。断念した理由のトップ3は「ビザの取得が困難」(62%)、「日本語の壁」(58%)、「資金調達の困難さ」(45%)だった。
スタートアップビザの現状
日本でも2015年から「スタートアップビザ」(正式には「外国人起業活動促進事業」)が一部の自治体で導入されている。福岡市、東京都、神戸市、仙台市など。このビザでは、最長1年間の在留が認められ、その間に「経営・管理」ビザの要件を満たすことを目指す。
しかし、利用者数は年間100人程度と、規模が小さい。手続きの煩雑さ、対象自治体の限定、英語での情報提供の不足が、利用の障壁となっている。
第3章:日本が直面する構造的課題
課題1:言語の壁
最大の障壁は言語だ。日本のビジネスは圧倒的に日本語で行われており、英語だけで事業を運営するのは極めて難しい。法人設立の手続き、銀行口座の開設、税務申告、取引先とのコミュニケーション。すべてに日本語が必要だ。
もちろん、グローバル市場を狙うスタートアップであれば日本語は必須ではないが、日本の顧客にサービスを提供する場合は避けて通れない。この言語の壁は、法律や制度ではなく文化の問題であるため、解決が最も難しい。
課題2:閉鎖的な資金調達環境
日本のVC市場は、日本語でのコミュニケーションと日本の商慣習の理解を前提としている。ピッチも投資契約の交渉も日本語で行われることが多く、外国人起業家にとってのハードルが高い。
また、日本のVCは一般的にリスク回避的で、実績のない外国人起業家への投資には慎重だ。「日本市場を理解しているか」「日本の顧客を獲得できるか」という問いが、常に投資判断の前提に置かれる。
課題3:生活環境の整備不足
住居の賃貸契約(外国人への貸し渋り)、子供の教育(インターナショナルスクールの不足と高額な学費)、医療(英語対応の病院が限られる)。日常生活のあらゆる場面で、外国人が不便を感じる状況が残っている。
シンガポールや香港が高度人材の誘致に成功している背景には、英語が公用語であること、外国人向けの生活インフラが整っていること、税率が低いことがある。日本がこれらの都市と人材獲得で競争するには、生活環境の抜本的な改善が必要だ。
第4章:国際比較 — 各国のスタートアップ人材政策
| 国 | 主要制度 | 要件 | 永住権への道 |
|---|---|---|---|
| アメリカ | O-1ビザ、EB-5 | 卓越した能力 or 投資 | あり(EB-5経由) |
| カナダ | Start-up Visa | 指定VCの支援 | 直接永住権 |
| イギリス | Innovator Founder Visa | 認定機関の承認 | 3年後に申請可能 |
| シンガポール | EntrePass | 革新的事業計画 | EP経由で申請可能 |
| フランス | French Tech Visa | 認定プログラムの支援 | 4年後に申請可能 |
| 日本 | スタートアップビザ | 自治体の認定 | 高度専門職経由 |
日本の制度は、要件の厳しさと手続きの煩雑さにおいて、他国に比べて見劣りする。特にカナダのStart-up Visaが「直接永住権」を付与するのに対し、日本のスタートアップビザは最長1年の暫定的な在留資格に過ぎない点は、大きな差だ。
第5章:日本が取るべき5つの戦略
戦略1:スタートアップビザの全国展開と要件緩和
現在一部の自治体に限定されているスタートアップビザを全国に拡大し、在留期間を2年に延長すべきだ。さらに、VCからの資金調達が決まった時点で「経営・管理」ビザへの自動切り替えを認める仕組みがあれば、外国人起業家の不安を大幅に軽減できる。
戦略2:英語対応の行政手続き
法人設立、税務申告、社会保険手続き。これらの行政手続きを英語で完結できるワンストップサービスを構築すべきだ。デジタル庁が推進するガバメントクラウドの一環として、外国人起業家向けの英語ポータルサイトを整備する。
戦略3:グローバルVCの誘致
日本のVCだけでなく、海外のVCが日本で投資活動をしやすい環境を作る。具体的には、ファンド設立に関する規制の緩和、二重課税の防止、英語でのファンド設立手続きの整備が必要だ。Sequoia、Andreessen Horowitzのような大手VCが日本オフィスを構えれば、外国人起業家の資金調達環境は劇的に改善する。
戦略4:「英語で働ける島」の創設
全国一律で英語環境を整備するのは現実的ではない。そこで、特定のエリア(たとえば東京の特区、福岡の特区)を「英語で働ける島」として指定し、そのエリア内では行政手続き、銀行口座開設、不動産契約がすべて英語で完結できるようにする。シンガポールやドバイの成功モデルを参考に、段階的に拡大していく。
戦略5:高度人材の永住権取得の迅速化
現在の高度専門職制度では、80ポイント以上で最短1年での永住権申請が可能だ。この制度をさらに拡充し、スタートアップの創業者で一定の雇用創出(例:5名以上の雇用)を達成した場合、永住権の優先審査を受けられる仕組みを導入すべきだ。
第6章:スタートアップ側にできること
外国人エンジニアの採用戦略
政策の変化を待つだけでなく、スタートアップ側にもできることがある。
- 社内公用語の英語化:エンジニアチームだけでも英語をメインにすることで、採用対象が世界に広がる。メルカリ、SmartNews、ラクスルなどが先行事例
- リモートワークの活用:必ずしも日本に来てもらう必要はない。海外在住のまま業務委託契約で働いてもらい、ビザが取得できた段階で来日する段階的アプローチも有効
- ビザサポートの充実:行政書士との連携、住居探しの支援、日本語学習の補助。採用時にこれらのサポートを明示することで、応募のハードルを下げる
多様性がイノベーションを生む
ハーバード・ビジネス・レビューの研究によると、文化的に多様なチームは、同質的なチームと比べてイノベーションの確率が20%高い。異なる背景、異なる視点、異なる発想の衝突が、新しいアイデアを生む。
日本のスタートアップが世界で戦うためには、日本人だけのチームでは限界がある。多様な人材を受け入れ、その多様性をイノベーションに変換する組織文化を構築することが、競争優位の源泉になる。
おわりに — 人材鎖国は、イノベーション鎖国
少子高齢化が進む日本にとって、海外の優秀な人材の獲得は選択ではなく必須だ。スタートアップエコシステムに限らず、日本経済全体の持続可能性がかかっている。
世界は今、高度人材の獲得競争の真っ只中にある。アメリカ、カナダ、イギリス、シンガポール、UAE。これらの国々が次々と制度を整備し、世界中から優秀な人材を引き寄せている。日本が現在の保守的な姿勢を続ければ、この競争に完全に取り残される。
人材鎖国は、イノベーション鎖国を意味する。そしてイノベーション鎖国は、経済の停滞と国際的な影響力の低下を意味する。政策立案者、起業家、投資家。すべてのステークホルダーが、この問題を「自分ごと」として捉え、行動を起こすべき時だ。
以上で、Pivot or Dieの連載10回を終える。起業のリアルを、多角的な視点からお届けしてきた。この連載が、一人でも多くの挑戦者の背中を押すことを願っている。








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